軽量混合機

その後、仕事も順調に伸び手狭な工場となり、横浜の新羽町の25坪程度の仮工場に移転しました。

昭和43年4月10日有限会社玉置電機製作所の名前で法人会社設立、山本電機時代の職工小笠原稔、私、親父3人で仕事を再開しました。

仕事受注先は北辰電気、東京機械、誠立工業、(高橋精機はちゃん、あきら紹介)富士電機、他仕事も順調に伸び、小笠原兄弟、小室修、長谷部秀春、総勢6人の会社になりました。

その時も又下請けの仕事の為、誠立工業の温度調整コントローラーのハートカムを汎用マイクロスイッチでは距離を測定していたので1mm程度スイッチ距離の誤差があり、技術の岸本、横山、岩渕部長、に差動トランスを提言、試作を親父が設計、非常に精度のよいコンパクト化に成功、玉置で生産開始台数が多く成ったら資材の鈴木が関西の外注に鞍替えしてしまいました。この時も下請けでは駄目になると思い、何か自家製品の開発を考えなければ駄目になると思いました。

いよいよ自家製品開発に着手、昭和44年頃下請けの仕事をしながら何か自家製品によいものが無いかと思案していたところ、姉の義理の兄(岡本さん)が東京の岸本産業、蝶理、東レなど商社の化成品部にいた頃、プラスチックの数種種のペレットを計量して混合する機械を開発したらどうかと提言してくれました。

当時、ソニー、松下電器(現在パナソニック)各会社はプラスチックの製品を作る前、必ず色見本をプラスチックで成型したプレートを作り決定していました。

その時ポリエチレンの袋にペレット主材料を手で入れて顔料を数パーセント入れて混合して色見本を作っていました。
その機械を作ったらどうかとの提言で早速設計試作しました。

1号機完成

千葉にプラスチッククセンター納入予定でしたが80万の売値で納入しようとしたところ、40万なら引き受けるとの事、やはり現実は厳しく、思案していたところ神奈川県中小企業で展示会現在の(テクニカルショー)に出品したらどうかとの提言があり、会場費は無料との事で第一回川崎のさいかやに出展することなりました。

現在のテク二カルショー横浜の出展後、最後に表彰があるとの事、まさか科学技術庁長官奨励賞が取れると思いませんでした。

この時、技術庁の人に鼻を高くしては駄目だと提言されました(確か水野さん)。

やはり試作1号機はテスト機の為製品にはなりませんでした。その後、特許を取得するため特許庁に提出、幸い実用新案特許を取得する事が出来ました。

 

当時、電大の友人で補永(鈴江特許事務所)に大変お世話になりました。

その後、テスト機ではなく成型機に直接直結する機械を試作しました。これには大変な試作費が必要でした。

私の友達はローンを組み、家を購入、私は大倉山に5棟分ぐらいの借金が試作機に掛かりましたが排水の陣で試作に思考錯誤してやっと3年目ぐらいから製品として販売できるようなりました。

その時、開発資金として県より開発補助金を300万円程、現在の金額でおよそ3000万程度だと思います、が頂くようなりました。大変たすかりました。

 

また、科学技術庁奨励賞のおかげで神奈川新聞、日刊工業新聞に記事として掲載されました。

掲載のお陰で大手の顔料メーカーが弊社に来てくれて技術的なことをアドバイスしてくれました。

大変ありがたく思いました。その中で大日本インキ、東洋インキ、東京インキ、大日精化、旭ダウ、三井東圧の元さん、旭ダウの三浦さんは玉置に毎日のように来てくれて粉粒体計量混合機の基礎が確立してきました。

又、東京インキの研究部の大田部長、加藤健二さん等ドライカラー、粒状カラー、マスターバッチ、の物性など良く教えてもらいました。

その為、機械的混合機だけではなく、混合度合い物性面からの大変混合度合いの良い製品が完成しました。

日に日に混合機は売れるようになりました。

最初の1号機は横浜の富士通化成、2号機は日産自動車の関係河西工業、中谷産業おもちゃのトミー工業〔篠崎さん〕。

 

関東合成は2台、その後台数がかなり多くなりました。

当時はシーケンサーが無くリレーシーケンスで制御盤を製作しました。

始めは音響機器を製作している北条敬一さんに依頼しましたがやはり音響機器製作の為機械的動作がなかなか取り入れられず苦労しました。

その時、熊代さんがセメントの配合機を手[鰺坂さん]がけていましたので、熊さん自身に任せてくれないかとの事、急遽依頼やっとの事で順調に動くブレンダーが完成しました。

その後、協和発酵の系列会社協和パック(松室専務)に納入250kg/Hrは順調に動作、引続き400kg/Hrを是非製作依頼があり、少し無理と断るがどうしても製作してくれとのこと2重のシートとの為やはり大変制作費に係り赤字製作でした。

やはり大手の合成樹脂関係の仕事を大変仕様が厳しかったのを一つ一つ丁寧に解決したことが現在まで続けられたと思います。

今思うと東京インキとの出会い、特に名古屋支店の山根支店長、丹内、高田様、多数の人のお陰です。

販売を始めて約10年程してから東京インキが商品として販売してくれるようなりました。

全盛時代の思い出

昭和45年頃西暦1970年当時のデジタル秤はスェーデン製で40万円程度の値段の高価な金額でした。

到底、タマキのブレンダーには取り入れる事が不可能でした。

そこで、やはり電機の知識があった為、当時スエーデン、フイリップス、KYOW、,ミネベア、東洋測器、HBMドイツ製、の圧力素子のロードセルを採用しようと思い価格を調査したらやはり1個当時で5万の金額それにアンプ〔増幅器〕、コンパレーター(比較機)を設計して作ると、やはり40万程度の金額になり、採用を断念。

その時、ゼロ戦に乗っていた新光通信の社長曰く「ゼロ戦は長距離飛行するとどうしても馬力が低下した」とこのと、それは熱膨張でスピンドルが膨張する為、その径をどうしても測定したいとの思いで差動トランスを開発。

千分の1mmまで電圧を測定出来る素子を開発した技術雑誌を目にして早速1本購入なんと価格は千円程度、ロバーバルの上皿天秤にて変位を測定バネにより500g圧で500g計量機、7kg圧で7kg計量機を製作、この時も内山さんに比較アンプのモジュールを設計なんと1週間で試作完成。

始めはアナログメーターでkgを表示してやっとの事でブレンダーに搭載完成しました。

その時も親父の関東学園の一色さんにバネ定数の計算式を教えてもらいました500g~10Kg重のバネ定数、始めのころはプリント基板を手作りで製作ベークライト銅板にローソクで配線図を書き酸化銅で腐食させ基板を作りました。

その時、熊代さんと良く作りました。

その後、電気大学の矢部さんに相談したところ、太尾町で少なくても製作してくれる元木電子に製作依頼、基盤が安定しました。

 

その後、表示をアナログメーターからデジタル表示に変換、混合機として世の中に販売出来るようなりました。

 

その後、ロードセルもニーズ諸国東南アジアで生産出来る様になり安い価格で入手出来る様なりました。

NMBユニパルス、型式を1980年 80D-LC7K型式名で販売開始。(80年でDドラム式LCロードセル搭載)

 

完成後、合成樹脂関係の雑誌に宣伝を依頼、合成樹脂新聞、プラスチックエージ、プラスチック、エンプラニュース等宣伝を出したところ毎月30社程度の引き合いが来るようになりました。

特にプラスチック雑誌の深山さんにはお世話になりました。その雑誌を見た東レの青山さん、坂本、大矢、白石さん、が早速新羽町の事務所もない工場を訪ねてきてくれました。

 

青山さんいわく「日本国内でこのようなコンパクトな重量式混合機があるとは思わなかった」との事、毎月のよう数台ずつ購入してくれました。

そのつど資材の戸張さんとは価格交渉したものです。(大阪の中之島)。

 

その後、郡是高分子の森さんもタマキの工場に見に来てくれました。

森さんもマスターバッチの計量で50g計量で+-0.5g以下で計量出来ることを見て大変驚きました。

 

その後、郡是高分子(野島様、)、親会社のグンゼ(新井様)は現在も購入してくれています。およそ50台以上になります。

 

東京インキのドライカラーを使用している三甲㈱本社他12工場120台購入してくれました。

 

現在も稼動中です(伊藤:安福:吉本)。

その後、三井化学、三菱樹脂、三菱エムペック、住友化学(最近藤木さん)、広範囲にわたり販売出来るよう売り上げも伸びるようなりました。

その後、特許も切れ、他社も重量計量が出来る様なり低価格の混合機が出回るようなりました(産業機電セムコ)。

 

その後、国内の売り上げは低迷しているとき、ジャパンプラスチック見本市に出展したところ台湾の商社が目を付けてくれましたが、最初の商社、林光明〔カンフオン〕はLCオープン後、小切手の紛失との事、再発行で二重取りをされてしまい訴訟問題で供託金30万、半年後勝訴やっと入金となる、以後台湾外国との取式は入金後輸出を条件と硬く思いました。

 

平達貿易(趙令平)、この方は大変日本びいきの為、母親が大変日本人に対し親切だった為、再び台湾の輸出を開始、25年程度で〔南亜プラ、FCFC,新光合成、遠東紡績、〕5億円以上は輸出できたとおもいます。

その後、国内では相変わらず景気が低迷、粉体を扱っている他の業種を探していたとき、PIABの上野さんがメッキの酸化銅の供給機を探していたところ粉体のフィーダーはタマキのフィーダーが適していることをAPE社に紹介してくれました。

最初の3台はすぐ採用されました。

ところが3ヶ月で軸受けが腐食、全交換なり大赤字となりました。

分野が違うとやはり難しい経験をしました。

早速、タマキの長い経験からUトラフに変更、製作至急クレーム処理をしたため客先より信用を得ました。

引続き注文を貰えるようになり30台注文となり、現在もリピートオーダーが頂ける様なりました。